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【Event Report(前編)】交差するふたつの都市論~〈迂回する経済〉と〈ひとり空間〉をめぐって

日時:2024年12月5日(木)19:00〜20:30

場所:シティラボ東京(ハイブリッド形式)

主催:学芸出版社・シティラボ東京

詳細:https://ukai-suru-keizai.peatix.com

2024年12月5日、学芸出版社とシティラボ東京の共催によるトークセッション「交差するふたつの都市論~〈迂回する経済〉と〈ひとり空間〉をめぐって|吉江俊×南後由和〜『〈迂回する経済〉の都市論』刊行記念」を行いました。約80名がオフライン・オンラインで参加しました。

〈迂回する経済〉の都市論』著者の吉江さんは、再開発地、盛り場、郊外住宅地、学生街などで起きている、人々の街への関わり方の変化を調査し、儲けに価値をおかない空間やサービスが最終的に利益をもたらす〈迂回する経済〉を提起し、新しいパブリックライフの姿を構想しています。

ゲストの南後さんは、ベストセラー『ひとり空間の都市論』(ちくま新書、2018年)で、都市に集積する「ひとり空間」で過ごす人々の生態を分析し、日本でひとり空間が多い理由、その特徴を明らかにしました。近年はコロナ禍以降の「ひとり空間」についても考察を深めています。

フィールドワーカーとして都市をリサーチし、都市論を思考されたきたお二人に、現在の都市とこれからの都市を読み解く視点を語っていただきました。

※長くなったため前・後編に分けてお送りします。まずは前編、お二人のプレゼンテーションです!

1.〈止揚〉としてのアーバンデザインにむけて:〈迂回する経済〉は何を問おうとしたのか?|吉江俊

まず吉江さんより、どのようにして『〈迂回する経済〉の都市論』にたどり着いたのかという観点からトークがスタートしました。

▼消費社会の中にある「信頼」とは

建築学科の学生でありながら社会学にハマり、「消費社会論」を研究していた吉江さん。主体性でさえも消費の対象になってしまう現象に対して批判的な視点も持ちつつ、その奥にある「人間の良さ」を手放したくなかったと語ります。その信頼が、都市を観察する社会学と都市をつくる計画学の視点を併せ持つ吉江さん独特のスタンスといえるでしょう。

前作『住宅をめぐる〈欲望〉の都市論』では、住宅の購入という、人生で最も本気になる行為が、住宅広告という消費に関わる産業とどう折り合いをつけるかという視点から、広告の文言やその分布、変遷などを分析し、豊富な図版と共にまとめています。

このような研究をふまえ、反消費ではない形で「従来の経済合理性の殻を破るストーリーを描けるだろうか」という問いをもって書かれたのが本書です。

▼〈迂回する経済〉と〈直進する経済〉

〈迂回する経済〉とは、社会的便益を経済合理性とは全く別のことではなく、両者が結びつくことでより持続的な経済に結びつくのではないかという考え方です。

〈直進する経済〉の都市開発は、利益の上がる空間を最大化し、賃料の最大化・短期間での利益回収を目指し、企業の利益とする考え方となります。

一方、〈迂回する経済〉では、直接的には企業の利益に結びつかないが、ゆとりのある共用空間を整備したり周辺地域の活動を支援したり、開発の「地」を整備します。それによって、企業や地域のイメージが向上したり、滞在時間が伸びたりすることで、様々な利益が生まれ、巡り巡って企業の利益に(も)つながっていくという考え方です。

吉江さんプレゼンテーション資料(『〈迂回する経済〉の都市論』)より

一つ気をつけなくては行けないのは、吉江さんは、単に〈迂回する経済〉だけではなく〈直進する経済〉との両輪で考えることが必要と主張していることです。〈迂回〉に関わる取り組みは民間企業も多くの可能性を持ちます。経済合理性の範囲を広げるという考え方が重要です。

なお、吉江さんはコロナ禍のフィールドワークで人々がパブリックスペースに集っている光景を見ていく中で、これからは建築(図)ではなく環境(地)をつくっていく時代と思うようになったことが背景にあるそうです。具体的な研究や開発の事例、また〈迂回する経済〉が持つ大きな要素「即自性・再帰性・共立性」については書籍で詳細に解説されているのでぜひ御覧ください。

吉江さんプレゼンテーション資料(『〈迂回する経済〉の都市論』)より

▼〈迂回する経済〉三層の止揚

本トークのタイトルには「止揚」というちょっと難しい言葉が使われています。これは、矛盾する諸要素をプロセスを通じて発展的に統一することですが、〈迂回する経済〉では以下に示す三つの層で整理できます。

  • 「計画」 経済的合理性と社会・公共的便益の両立〜〈直進する経済〉よりも〈迂回する経済〉の方が持続的で合理的だということを実践例から見出す
  • 「価値」 社会学と計画学の架橋〜近代都市計画が排除してきた価値(即自性・再帰性・共立性)を社会学等の視点から見直す
  • 「倫理」 大都市と人間存在の止揚〜「誰」と「何」の矛盾する世界を止揚する都市論を編み直す

三番目について補足すると、近代都市計画では個々の人間(「誰」)を、属性や数という数値(「何」)という要素に変換してきた訳ですが、そこをもう一度見直そうということです。一方、個々の人間だけを見ていると都市のことは考えられない、その矛盾する世界をつなぐ所にこそ、「パブリックライフ」の都市論が必要であろうという吉江さんの想いが感じられました。

2.〈ひとり空間〉は〈迂回する経済〉とどのように交差するのか|南後由和

続いて南後さんより、理論・思想的なバックグラウンドと、〈迂回する経済〉が体現する「パブリックライフ」とは一見対局にあるようにも思える「ひとり空間」について紹介を行った上で、吉江さんに対するアンサートークが展開されました。

▼アンリ・ルフェーヴルとシチュアシオニストの都市論

アンリ・ルフェーヴルはフランスの哲学者・社会学者で、物質的形態を持つ「都市」と、社会生活の出会いや集合といった社会的形態である「都市的なるもの」の二重性、両者の関係性に着目しました。

これを都市空間に当てはめると、専門家が描く図面や模型といった抽象的な空間(「空間の表象」)と、実際にまちの利用者が暮らす具体的な空間(「表象の空間」)があり、両者が「空間的実践」として関係しながら、イノベーションを起こしたり、場合によっては排除や疎外といったネガティブな現象が起きたりするという関係です。これらを俯瞰的に見るのが、社会学者である南後さんの視点です。

シチュアシオニスト(状況主義者)とは、ヨーロッパで芸術と日常生活、文化と政治の統一的実践を目指した前衛グループです。個人の作品や作家を認めず、日常生活自体の集合によって成り立つ都市自体が作品といった「集団的創造」という考え方を持ちます。また、「漂流」や「心理地理学」というキーワードもあり、〈迂回〉にも関係するのではないかということです。

例えば、ギー・ドゥボールの「ネイキッド・シティ」という作品では、パリの地図を切り刻み、心理的結びつきに応じてコラージュしています。ネット時代の地理感覚にもつながるものがありそうですね。また、コンスタントの「ニューバビロン」というアンビルトプロジェクトでは、オートメーションの進展により人間は創造的活動である「遊び」が全面化していく構想を立て、ノマドとして「漂流」していく都市像を描いています。20世紀半ばの前衛芸術でも、既に現在の社会に通じる様なイメージが描かれてきたのですね。

▼日本の現代都市における〈ひとり空間〉

〈ひとり空間〉とは、「何らかの仕切りによって、帰属集団から一時的に離脱し、匿名性が確保された空間」を指しています。ここでの「仕切り」にはアクリル板のように物理的なものもあれば、スマートフォンのような情報デバイスによる見えないものもあります。

都市の中で「ひとり空間」は様々なところに現れますが、特にモビリティとの関係が深く、移動によって生み出される、つまり家や仕事、余暇や社交の合間にある「中間空間」という形をとることが多いようです。

さらに日本の場合は「課金空間化」されたものが特に多く、例えば、駅前のネットカフェやカプセルホテル、最近増えてきた駅構内のワークブースなどが典型例といえます。逆に言えば、都市の公共空間での「ひとり空間」が少ないとも言えそうです。

南後さんプレゼンテーション資料(『ひとり空間の都市論』)より

一方、河川沿いのちょっとした空間をうまく「ひとり」で使っている事例、公園で「ひとり」から「複数」までが共存しているヨーロッパの事例を見ると、「ひとり空間」と「パブリックスペース(ライフ)」は必ずしも相反するものではないようです。もっとも、日本のパブリックスペースは、誰にでも開かれている割に関わりの薄い関係性しか生み出せていないのではないかという指摘もあり…、一度考えてみる必要がありそうです。

南後さんプレゼンテーション資料より

コロナ禍は〈ひとり空間〉のあり方にも影響を与えました。例えば、アクリル板による仕切りの復活、オンラインで仕事ができるホワイトカラーとエッセンシャルワーカーの分断、国や地域の境界をまたぐ移動の制限…等々。ここにも社会や政治のあり方が具体の都市空間や活動に影響を与える例を見ることができます。

また、コロナ禍をふまえ、インスタント個室のように近くにいる人を隔てる「近隔型」、ひとり空間がオンラインでつながる「離接型」といった新しいタイプも定着しつつあります(→詳細は参考1参考2を参照ください)

▼〈ひとり空間〉と〈迂回する経済〉の交差

『ひとり空間の都市論』は、「ひとりで居続ける」ことが必要であると主張しているのではなく、数字に還元されない「ひとり」の多様性を考えること。「ひとり」にも「みんな」にも個別性と普遍性、接続と切断、顕名と匿名といった関係を考えていくことが大事だという想いがあったとのことです。吉江さんの話にあった「誰/何」にも通じますね。

我々が実際に都市をつくっていくためには、このような「ひとり」と「みんな」の相矛盾する関係をどう調整するか、スイッチングが可能になるのかを考えていくことが重要で、パブリックスペースのデザインでもテーマになっていきそうです。

また、都市全体の持続可能性を考えていく上で必要な視点として、スーパーや医療などが近くにあるといった「機能的近接性」や、人の出会いや関係づくりの機会といった「関係的近接性」を考えていくことが必要です。

近現代の都市は「孤独とコントロールを引き換えに利便性を提供する個人消費のためのメガマシン(エツィオ・マンズィーニ)」とも評されましたが、これからの都市は、「多様な〈ひとり〉」が異質性を保ったまま共存するための実験室としての都市」への想像力を鍛え上げていくことが問われているのではないか、という投げかけでトークを締めました。
後編はいよいよお二人のディスカッション、会場とも活発な質疑応答が続きます。ふたつの都市論はどこで交差するのでしょう?後編のレポートはこちらになります!

文:平井一歩