レポート
【Event Report(後編)】交差するふたつの都市論~〈迂回する経済〉と〈ひとり空間〉をめぐって
2024年12月5日、学芸出版社とシティラボ東京の共催によるトークセッション「交差するふたつの都市論~〈迂回する経済〉と〈ひとり空間〉をめぐって|吉江俊×南後由和〜『〈迂回する経済〉の都市論』刊行記念」。フィールドワーカーとして都市をリサーチし、都市論を思考されたきたお二人に、現在の都市とこれからの都市を読み解く視点を語っていただきました。
3.ディスカッション:交差するふたつの都市論
対称的であるようにも見えつつ、実は色々な接点が見えてきた〈迂回する経済〉と〈ひとり空間〉、多様な知見を持ちつつベースには都市計画系の都市論と社会学系の都市論があるというアプローチの対比もふまえつつ、登壇者二人の対談で深堀りしていきます。
▼都市論の記述の仕方・記譜法:アーバンリテラシー
南後:吉江さんの書籍は地図やチャートといった図版がすごく充実していて、一般の人にも調査結果をわかりやすく伝えることに注力していますよね。考現学の今和次郎、吉阪隆正といった早稲田大学の系譜も感じました。「リテラシー」とは「読み書き能力」を意味しますが、従来の都市論がいかに都市を読み解くかに重点を置いていたのに対して、吉江さんの本は、その都市の読み解きをいかに「書く・表現する」かという記述や記譜法に独特のスタイルがある点に、アーバン・リテラシーのユニークさがあるなと思いました。
吉江:図には力を入れました。建築学科の風土とも言えますが、ゼミをつくってからはさらに積極的に、出来上がったものを図にするのではなく、過程の中で図を使って考える、図が思考をリードするような可能性を探ってきました。
▼「迂回すること」と都市論 〜 〈迂回する経済〉に目的地はあるか?
南後:吉江さんは本の中で「都市計画」が「つくる」ことを前提としているとすれば、「都市論」はその前提を「疑う」ものであると書かれています。そう考えるなら、「つくる」ことに直進しない吉江さんの都市論〈迂回する経済〉は、〈迂回する都市計画論〉としてあると言えると思いました。シチュアシオニストのように目的をもたず「漂流」するアプローチがある一方で、〈迂回する経済〉は計画である以上、「目的地」が設定されているのでしょうか。
吉江:〈迂回〉にゴールは決まっているのか…、ドキッとする質問です(笑)。例えば、J.ジェイコブスが『アメリカ大都市の死と生』で近代的な開発を批判して人間関係やコミュニティを説いているが、実は同じ様な言説は他にもあった。ただし彼女の場合は多様な価値観を「治安」という言葉を使ったことで説得のフックとなった。
一方私の場合は、都市計画の視点からは民間企業をエンパワーしていきたいという思いもあり、その意味ではニュートラルな都市論ではなく、戦略的に企業の利益を設定しているところもあります。ジェイコブズの「治安」の代わりに「民間企業の利益」を落としどころにしているわけです。ただ〈迂回する経済〉の全体像としては、豊かなパブリックライフの実現など「色々ないいこと」が起こる中のひとつに「企業の利益」もあるという説明をしています。
▼スマートシティのカウンター 〜 意義ある非効率
南後:近年注目を集めているスマートシティでは「効率性」や「最適化」が目指されていますが、書籍『スマート・イナフ・シティ』(ベン・グリーン、2022)では、アメリカのメディア研究者らがオンライン・ゲームとして開発した市民参加型のプラットフォームの「意義ある非効率」という考え方が紹介されています。コミュニティ内の熟議や意思決定などでは時間がかかったりする側面もありますが、その意義と範囲を認めることで、人びとが望む方向へと進むという趣旨です。〈迂回する経済〉は、スマートシティへのカウンターとも読めるのではないでしょうか。
吉江:そういってもらえるとありがたいです。日本でもスマートシティの構想はたくさんあるが、どれだけ実現されたのか、スマート化だけだと難しいのではないかという思いもある。
都市の面白さは「絶対に思うようにいかない」ということで、個別の合理性を足し合わせても絶対に全体の合理性にならない。理論だけ追求しても解は出てこないが、なんとなくうまく折衷してやってきたのが都市。誰かが何か不満を言っているが落とし所を見つけてきた…というものではないかと思っています。
▼社会学にとっての都市論 〜 都市は限りなく社会
吉江:逆に質問ですが、社会学は別に都市を対象にするする必要もない中で、南後さんが都市論を志しているのは、都市にどのような可能性を感じているのでしょうか?
南後:端的に言えば、都市について考えることは社会について考えることと限りなくニアリーイコールだということです。吉江さんが言うように、都市には思い通りにいくところ、意図せざる結果(副次効果)の両方があります。
社会も同じで、個人の足し算としてあるわけではなく、各々の中間組織が連携しようとしても思い通りにいかないものです。個人と集団の両方がせめぎ合って、時には社会問題化したり、調停が求められたりします。そのような場が都市であり、社会であると考えています。
▼経路依存性の中で変化していく「都市」への視点
吉江:もうちょっと突っ込んでもよいですか。社会学は、ひとつは近代化やポスト近代化(の都市)について研究してきた学問でもあるが、いまは「都市」の意味合いが変わってきたようにも思える。私も都市計画と言いながら郊外や地方の仕事が増えてきて、これは「都市計画」なのかと思うこともあるが、このようなことをどう考えますか?
南後:都市と郊外、都市と地方は完全に分けられるものではなく、むしろ両方が連動するかたちで互いに関係性を持っています。例えば、郊外化は都市化によって起こっていると言えます。東京で起こっていることはアジアの都市間競争の中で起こっていることでもあります。都市をこのような連動性やスケールの重層性の中で捉えるということがポイントだと思います。
社会学は、制度やメディア環境の変化によって都市のあり方がどう変わってきたかという歴史学的なアプローチを重視します。それまでの制度やインフラが地層のように積み重なっている「経路依存性」を考慮して都市を見ていくのが、社会学のアプローチの特徴です。
▼都市の指標 〜 新しい研究の可能性
吉江:別に「ひとり」を増やしたい訳ではないのだが、「ひとりで居られるか」という問いが、空間を点検する概念としてあるのではないか。公開空地や公園といったオープンスペースを考えた時に、ただのだだっ広い空間にひとりで居てもしかたがなく、居場所が備わっている必要がある。都市計画でも色々なKPIはあるのだけど、来場者数や空き家率といった指標をカウントするのではなく、「問い」を携えて都市を見ていくのは新しい方法になりそうです。
南後:僕自身は、社会実験やプレイスメイキングがうまくいかなかった所や、何を成功として何を失敗とするかという評価の線引きのされ方に興味をもっています。こういった取り組みをめぐる「指標の研究」が重要になると考えていて、吉江さんの関心ともクロスするポイントと思いました。
吉江:僕も「指標の思想史」のようなことに興味があります。例えば、ウォーカビリティの指標は新しく出てきたように思えるが、道路の安全性や交通量、道路幅といった指標は以前からあり、それらの束ね方を変化してきたとも言える。このような変化を俯瞰してみると面白いかと思っていました。
南後:個別の事例が展開されているだけで俯瞰的に見た研究もないですし、指標の研究は確かに面白いですね。公的施設のコンペの評価などへの展開を想定すると公益性も高い研究になりそうな予感もします。
吉江:都市そのものを分析することと、都市計画を前提とするのでは、やはりある程度違いがあるかと思います。色々な行為の中で都市計画の非常に特殊な立ち位置は「アイロニーができない」ということ。芸術作品ではできるけど…。そこに住んでいる人が居て、莫大な資金・税金を使うものなので、やはり前例主義的なものでないとなかなか説得できない性格はある。それが、都市計画を前提とする都市論の難しさであり、それも面白さだと思っているところです。
南後:実はシチュアシオニストのコンスタントは、「つくる」ための技術を重視しすぎたということでグループから除名されています。「つくる」ということは、やはり制度や技術をめぐる政治性などに関わることでもあるからです。ですが、僕はたとえ「つくる」ことに矛盾や限界があったとしても、そのことを諦めなかった彼にこそ、シチュアシオニストのもう一つの可能性があると考えています。
指標という点では、社会実験などにおいて、実験の主体が評価を行っていることが多いという問題を感じています。大学研究者として、その指標がどのような社会的な位置づけを持っているのか、経年的に評価のあり方がどう変化しているのかなどについての研究はぜひ行ってみたいですね。
4.会場からの質疑応答
会場からも熱心な質問が続きます(オンラインで質問された方、すみません時間が足りませんでした)。
質問1:前作『住宅を巡る〈欲望〉の都市論』の最後には「消費化された都市にあって、美は公共性に宿る…(中略)…そうなって初めて「商品化された空間」はその呪縛から解放される」と書いてありました。〈迂回〉する都市論をふまえた上で、これからどんなアプローチをお考えでしょうか?
吉江:〈迂回〉を論理的に突き詰めていくこととは別に、物事が風景として現れ、自分の行動が変わるという可能性があると思いました。それは、社会的な要請を「解決」すること以上に、ある種の美として「表現」されているということだと思います。そうなると、いちいち頑張って説得しなくてもよい次元に入ってくる。〈迂回する経済〉も頑張って説得する本なんですが、最終的には「美」として受け止められると次の段階に来るのではないかと考えています。
質問2:計画学の中に「ユニークな個人」を結びつける方法を探求できないでしょうか?場や店の面白さはそこにいるオーナーや常連といった人間の面白さかと思いますが、コミュニティを育てることと、「外れ値」にいるような人とは、ちょっと違うとも感じています。
吉江:都市計画はやはり人間なので、ユニークな人物は歓迎しています。まちの中の色々な人たちを探すことが一番大変な思いをしているところです。人間の個別性からスタートして地域をどうにかしていくということはあります。例えば、団地の中にどんな人たちが住んでいるかを共有して、そこから団地再生を考えるようなアプローチがあります。そのために、実はオーラルヒストリー調査をすごくたくさん行っていたりします。
質問3:「ひとり」には、感覚的にメリットも感じるのですが、それを社会的意義や経済的意義に変えていくということをどうお考えでしょうか?
南後:今日は「状態としてのひとり」という話をしましたが、現代の日本では単身世帯がマジョリティですし、ソーシャルメディアの普及によるストレスから逃れるという点で、あるいは、孤独を紛らわせるという点で、「ひとり」を対象とした色々なビジネスが出てきています。
日本の〈ひとり空間〉はほとんどが商業空間に偏っている現状ですが、今日の議論の中では、パブリックライフやパブリックスペースにおける「ひとり」をどう模索するかというポイントも出てきました。ここ数年に公民連携によってできた公園に見られるように、「ひとり」と「複数」のスイッチングを可能にする選択肢は増えつつあると思いますが、それでも公園の民営化という制度やルールの上にあると言えます。さらに前進させるならば、ユーザーの人たちがルールを書き換えながら〈ひとり空間〉のあり方をどう見出していけるかが課題となってくるかと思います。
質問4:〈迂回〉の目的地の話がありましたが、民間の不動産事業者としては、目的地に進んでいるかどうかの分かりやすさが課題と感じました。分かりづらいことにより、経営者や担当者によっては事業自体が継続できないということを多々見てきました。社会や企業として一体的に目的地に進むことは可能なのでしょうか?
吉江:一言では答えられなくて、会社によります。実際には会社ごとに説明の仕方を工夫しています。例えば、宿場町を商圏とするハウスメーカーであれば蔵を活かした上質な商業施設を入れることで地域の価値が高まり、居住者が増えていき、売れ行きが上がるというストーリー。地価や機能、居住者数などで検証することはできるけど、それだけだとハウスメーカーに特化しただけの説明なので、やはりそれぞれのロジックが必要になるかと思います。
5.ふたつの都市論 〜 その交差点
都市や都市計画はもちろん、フィールドワークから前衛グループまで多岐に渡った本日のトークセッション。登壇両者の「都市論」はどのように交差したのでしょうか?
ひとつは、両者とも〈ひとり〉という単位を重視していることではないでしょうか。南後さんは社会学者として、社会現象としての「ひとり空間」から現代を描き出す。一方、吉江さんは計画者として「何」に還元されない「誰」を重視する。
実はこの段階では、両者の〈ひとり〉は微妙に異なっている点があるようにも感じるのですが、そこが交差するのは、〈ひとり〉と〈複数〉が「スイッチング」できることが重要というディスカッションです。さらに、その可能性が「パブリック」に求められていること。逆に言えば「パブリック」は〈ひとり〉をどう扱っていくのかという問いが、これからの計画論に求められる、ここに一つの交差点がありました。
さらに、ディスカッションでは、このような考え方を都市論の中で研究していく「指標論」の可能性にも話が及びました。これも交差点が生まれる可能性と言えるでしょう。
実際には、上記に限らず、参加者の課題意識によって様々な「交差点」が見出されたのかと思いますが、ひとつ言えることは、このセッションに参加した人たちは、なんらかの形で都市を見る「モノサシ」が変わったのであろうと思います。サステナビリティの世界でもモノサシを変えることで社会が変わっていく可能性がよく言われます。〈迂回〉というモノサシを新たに手に入れた事業者・計画者・生活者がどのようにより豊かな都市・社会をつくっていくのか…、今後の展開が楽しみです。
文:平井一歩